はじめに
フレデリック・ショパンは、1810年3月1日、ポーランドの首都・ワルシャワ近郊のセラゾヴァ・ヴィオラという小さな村に生まれました。父はポーランドに移住してきたフランス語の先生、母はポーランド人(貴族の末裔)でした。
フレデリックは、幼いときから母にピアノを習い、12歳の頃から作曲を勉強しました。
1830年には大ピアニストとして演奏旅行を行いました。そして、ウイーン、ミュンヘンを経てパリに行きました。
元々彼は、サロンでのアットホームな雰囲気を好み、サロンにての演奏で人気上昇しました。
そこで、リスト、ベルリーニ、マイヤーベーヤ、ベルリオーズ等の音楽家たちと交友を蜜にしました。
また、女流作家・ジョルジュ サンドとの10年にわたるロマンスも多くの人の知る処となりました。
ショパンの繊細な芸術は彼の病気と深く関わりがあり、生来虚弱であった上に、
1838年風邪をこじらせたのがもととなり、肺結核を患い、39歳と言う短い生涯を閉じました。
その生涯を只管ピアノ音楽に捧げ、ピアノの詩人といわれています。
恰も詩人が美しい語彙をつらねて詩をつくる様に、ショパンは誠に美しいピアノの音を連ねて、
弾く人は勿論、聴く人の心を打つ様な「音楽の詩」を作りました。
ベートーベンの様に大型の形式のピアノ曲とは違って、ほとんどが小さな可愛い詩の様な感じの曲です。
ショパン自身は、作曲しても「題名」をつけませんでした。
しかし、色々と題名があるのは、楽譜の出版者が、後から曲名を付けたのでした。
実際に、「子犬のワルツ」や「雨だれ前奏曲」などをはじめとして、祖国ポーランドが
滅びて行くのに対して、祖国への郷愁と愛国心が表現されています。とりわけ、
「マズルカ」、「ポロネーズ」そして「バラード」が有名です。
他にも少しばかりの歌曲も書いています。全部で200曲余りの作品になりますが、
殆どがピアノ曲で、しかも当時のピアノの分野に友人のリストも驚くほど、
新しい境地を開拓したお人です。
一方、ショパンは、二つのピアノ協奏曲を作っています。
それが、
Piano Concerto No. 1 in E minor, Op.11
1. Allegro Maestoso. 2. Romanse largherro. 3. Rondo-Vivace.
Piano Concerto No.2 in F minor. Op.21
1. Maestoso. 2. Larghetto. 3. Allegro Vivace. です。
実は、このNo.2 (Op.21) の方が先に出来ていたのでした。
なぜ、そうなのかと言いますと、
この楽譜が出版されたのが後になったと言うわけです。
とりわけこのNo.2は、ショパンの初恋の人・コンスタンチアへの思いが
込められて作られただけあって、内容的には、とてもとても19歳と言う若い青年が
書いたとは思えない情熱的な作品です。とりわけ、第二楽章のラルゲットは、
喩えようもなく甘く美しく情感に満ち溢れています。

「補足」
なぜ、このトップペイジのBGMに
クロード・アシル・ドビュッシー作曲のメロデイーが付せられているのか
’不思議だなぁ’と、お感じになられた事と思います。
それは、別の項目の処でドビュッシーのことをお話致しますので、
それを通して、「ああ なるほど」と
ご納得していただけると思います。
念のため申し添えました。







